和中庵とは
和中庵とは

「和中庵」は滋賀県近江五箇荘(ごかしょう)出身の繊維製造販売業者、藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年-1956年)が贅を尽くし、粋を凝らして建てた、鹿ヶ谷の山裾の林を開拓した広大な庭園を持つ邸宅である。
 昭和24年(1949年)にノートルダム教育修道女会が取得。修道院として改造、利用した後、平成20年(2008年)にノートルダム女学院中学高等学校に移管された。

 

和中庵の歴史

1.藤井 彦四郎と和中庵の建築

藤井 彦四郎は、日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの一人と言われる。(藤井有鄰館を創設した第四代藤井善助(1873年-1956年) は彦四郎の三歳違いの兄である。)

藤井彦四郎

彦四郎は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。大正期になると帝国人造絹絲(現・帝人)や旭絹織(現・旭化成)などにより人造絹糸の国産化が図られるが、彦四郎は工場経営は行わず毛糸事業に重点を移し、共同毛織、共同毛糸紡績(現・倉敷紡績)を興して「スキー毛糸」のブランドで成功をおさめ財を成した。

スキー毛糸のトレードマーク

大正15年(1926年)、彦四郎は、大文字山のすそ野、法然院・安楽寺・霊鑑寺門跡に続く 鹿ヶ谷桜谷町の土地一万数千坪を取得した。山のすそ野でありまた広大な敷地でもあったこの土地の開発には大変な労力を費やすことになるが、彦四郎は時間をみては現地に足を運んで指示を与えている。
 
大正15年3月17日 から、彦四郎の陣頭指示のもと、工事に取り掛かった。そして本邸とともに、長男正次郎・次男繁次郎・分家栄之助・三郎らの住宅も建築した。

和中庵の建築工事

本邸は彦四郎の友、漢学者長尾雨山により、「何事にも偏らず公平に」をモットーとして「和中庵」と命名された。この住宅のお披露目の会は昭和3年(1928年)4月13日に執り行われている。和中庵の扁額はこの長尾雨山のもので、また木堂犬養毅の額も掲げられた。
 

長尾雨山による書

 

2.和中庵の庭園

山裾を切り開いたこともあり、和中庵から西に広がる眺めは天下一品であった。それにもまして東山から流れ出る水は清らかで絶えることがない。この流れには石橋がかけられていて豊里橋と名付けられ石杭にその名が刻まれた。

豊里橋の渡り初め

 

主屋にはいくつかの部屋があり、また大小の茶室もあった。庭園には大きな石が配置され、客殿の前にひとつ、大きな茶室の前に同じくらい大きな石がひとつ置かれた。さらに24の石灯篭がそこここに置かれ、さまざまに工夫された植え込みや樹木も美しいものだった。大きな茶室の横にはこの地域の桜谷町の名前の由来になった、桜の野生種エドヒガン(江戸彼岸)の大木があり4月上旬には美しい花を咲かせていた。 

 

3.皇族も来訪された和中庵

和中庵には皇族も来訪されている。昭和7年には賀陽宮恒憲王殿下(かやのみや つねのりおう)が一泊し、また久邇宮多嘉王殿下(くにのみや たかおう)も訪れた。賀陽宮は夫妻でも来られて幾度か宿泊もしている。  この皇族の宿泊にあたっては府知事からの依頼と照会が彦四郎宛になされていて、「殿下に於かせられては、頗るご満悦の御模様を拝察候」とか、妃殿下同伴で藤井邸宿泊の希望がだされ、「実は貴邸には度々の御宿とて御迷惑と存じ候間、他へ御変更の御意見を申上候も、殿下には貴邸が特に御気に入りにて…」と、度々の宿泊がなされており、この鹿ケ谷の邸宅がことのほか気に入っていたことがみてとれる。 

 

4.ノートルダム教育修道女会の所有へ

昭和23年(1948年)11月27日にノートルダム教育修道女会のセントルイス管区本部の4名のシスターが来日し、京都でいくつかの物件を検討している。その年の12月中旬に、ようやくこの和中庵と出会う。そして、クリスマスの数日前に取得することとなった。この和中庵は彦四郎から引き継がれて藤井家の兄弟姉妹の持ち物だったが当時は空き家となっていたものだった。  当時彦四郎は「戦後になって、もう私達はこんな大きな家には住まない。どうぞ全部ご自由にお使いください。」とシスターに伝えたそうだ。このようにして和中庵の土地と建物は、藤井家からノートルダム教育修道女会へと売却されることとなった。

 
 

5.修道院となった和中庵

和中庵は清貧を誓って人生を歩もうとするシスターたちの修道院としての役割を果たすため、シャンデリアは蛍光灯に、お座敷の畳は全て板張りに、洋館も聖堂として使われ、すっかり内部の佇まいは変容した。また、多い時には60人ものシスターやシスターの養成期の修練者たちが生活を営んでいたのである。 

6.ノートルダム女学院中高に移管

やがて、シスターたちの高齢化に伴い、修道院としての役割を終えて、2008年春シスターの引越しが完了。ノートルダム女学院中学高等学校に移管される。  そのころの和中庵の状態は老朽化が進み、教育施設として活用するには多くの費用を要するため、一時は解体が決定された。しかし、関係者の保存への思いが多くの人々を動かすと、状況は一変。残念ながら、主屋はとり壊すことになったが、その他の、洋館、奥座敷(客殿)、蔵、お茶室については最小限度の改修工事と耐震工事を施すことにより、2014年から2015年の2年間の改修工事を経て教育施設として活用できることになり、現在に至る。